7歳から酒を飲んでいた!?酒乱で借金地獄だった戦国武将【信長の野望・新生】
お金のかわった逸話の多い戦国武将といえばこの人!知る人ぞ知る信長の野望・新生にも登場する日本の戦国武将をクイズ形式で紹介します!ただの守銭奴ではなく、狭義心もあり、マニアに人気の戦国武将の1人です
▼ 変わったお金の逸話で有名な知る人ぞ知る戦国武将!【信長の野望・新生】
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● 小早川秀秋(こばやかわ ひであき)
小早川秀秋は、安土桃山時代に活躍した武将であり、豊臣秀吉の正室・高台院の甥として誕生し、その血縁の近さから将来を嘱望された人物である。天正10年(1582年)、高台院の兄である木下家定の五男として生まれ、幼少の頃より秀吉の庇護を受け、天正12年には秀吉の猶子、翌年には正式な養子とされて高台院のもとで育てられた。幼名は「金吾(きんご)」であり、この名は後年に至っても仮名として用いられた。天正16年、聚楽第に後陽成天皇が行幸した際には、まだ若年の秀秋が「金吾殿」として起請文を受け取る役を務めており、秀吉からの期待の高さがうかがえる。天正17年には元服して秀俊と名を改め、織田信雄ら6大名が連署した文書の宛先ともされ、若干7歳にして丹波国亀山10万石を与えられるなど破格の待遇を受けた。文禄元年には従三位権中納言兼左衛門督に叙任され、「丹波中納言」とも称された秀秋は、関白・秀次に次ぐ豊臣家の後継候補とも見なされていたが、文禄2年に秀吉に実子・秀頼が誕生すると情勢は一変する。黒田官兵衛の進言により、秀秋は毛利輝元の養子として毛利宗家入りする案も浮上したが、毛利家側はすでに穂井田元清の子・秀元を後継に立てていたため断り、代わりに小早川隆景が自身の小早川家に迎え入れることを申し出てこれが認められた。こうして文禄3年、秀秋は隆景の養子となり、名実ともに小早川家を継承する道を歩み出す。しかし文禄4年、秀吉が関白・豊臣秀次を粛清した「秀次事件」に連座し、羽柴家の一門として有していた丹波国亀山10万石を没収され、豊臣家内での立場は一気に後退する。隆景の死後に筑前名島城を受け継ぎ、のちには備前岡山へと移るが、その存在感は豊臣政権内でしだいに希薄となっていった。だが、慶長5年の関ヶ原の戦いでは、開戦当初は西軍に属していた秀秋が突如東軍に寝返り、大谷吉継隊を急襲したことで東軍勝利の大きな契機を作り出す。この劇的な裏切りは「小早川の裏切り」として語り継がれるが、実際には家臣団内で東軍寄りの意見が強く、また秀秋自身が「自ら動かなければ徳川家康に討たれる」という危機感に追い詰められていたことも背景にある。戦後、その功績をもって旧宇喜多領である備前岡山を加増され、名も「秀詮(ひであき)」と改めたが、わずか2年後の慶長7年(1602年)、21歳という若さで急死。死因は酒の飲み過ぎによる中毒とも、裏切りへの罪悪感に苛まれた心労とも言われており、正室も子もなく小早川家は断絶となった。若年ながら数奇な運命に翻弄された生涯は、豊臣家と徳川家、そして一族の命運をも左右した短くも劇的なものであった。
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おー鎧でもしやと思ったら。仁王シリーズは本当に素晴らしい
関ヶ原本戦では初めから東軍で参加する意向があったらしいですね
西軍にいた伊藤盛正を追い出して布陣してます
金癖、酒癖が両方悪い人は昔居たが、
秀秋あんたもかい…
しかし、酒の飲み過ぎ無ければ…飲まれ過ぎである
ありゃ。顔グラが元アイドルの大野智くんから代わってる
21歳で肝硬変ってすごいな…
ギネスに載りそう
小早川金吾秀秋か。戦国BASARAでは秀秋じゃなくて金吾として参戦している。
何故か鍋を常備している。
戦場では猛将だったって話もあるから統率か武勇のステもう少し高くてもいいんじゃないって感じる人
借金生活&弱年アル中で分かりましたw
関ヶ原のおかげで「裏切者の代表格」みたいに扱われてるけど「秀頼産まれてからの扱い」を考えたら『いつ裏切っても可笑しくない』んだよねw
それと朝鮮の役とかの活躍を考えると武将としての器は軽く見られ過ぎですね。
接待とアル中で察し
豊臣も毛利も扱いに困った人なのが悲しい